yasugian’s blog

日本人の習慣

配達員の責任として粉飾する上層部

損害賠償責任を被害の差出人の判断に任せるだけの郵便局の態度のおかしさから全ては始まっている

この郵便局側の無責任、つまり被害者があえて被害であると書類を取り揃えて提出しない限り損害賠償責任に値しないとするおかしな判断は一体その理由は何であるかである

 

被害となった差出人はこのおかしな郵便局の判断を社会的に訴えかけたとしても、一般の人々はどう思うだろうか?

通常ならば、直接配達員の責任にはなると理解しつつ、配達員により生じた損害責任は直接上司である局内の管理者すなわち局長の責任になるだろうことは誰もが知っている

 

しかし、それは郵便局内の事情により誰の責任になるかは一般には定かではない

それがさらに本当に判断の付かない実情となれば、通常判断として損害責任の迅速な対応の果たし方としては内密に被害者である差出人に配達員自らが迅速に弁償して済ませてしまうことであり、局長などには気付かせない仕組みを依頼したなどが後で発覚したりすることにより一般的な批判問題として取り上げられることが多いのではないか

つまり、交通事故などのその場でお互いの示談で済ませる同じやり方を郵便局員として行なってしまうというやり方である

 

だから、一般に知らない人々はその配達員のみの示談で内密に済ませておく仕組みのことだと思い込むだろう

実は、その示談での済ませ方が通常の配達局員たちの習慣として暗黙に横行しているものとして局長が判断し、常に配達員だけの責任止まりとしてしまっている場合にこのような難解で意味不明な判断の結果を生ずるものと考えられるだろう

 

これは無差別テロに対する全くの裏影響とも考えらえ、明らかに被害者を特定したままに放置させる無責任テロの終わりなき始まりである

情報運び人は自分で変化対応できない

郵便局の配達要員は配達に関してアクシデントを生じた場合、自分自身で変化対応はできないだろう

そもそも一般世の中の情報走り屋や嗅ぎ付け屋が存在する限り、郵便配達員はアクシデントを自分の判断で対応できないのだろう

そのために郵便局では配達を自らは日頃行なわない局長という立場が用意されている

郵便局長は現地の配達責任から身を引くことにより、配達員が関わるアクシデントを唯一対処できる存在なのだ

郵便局内全体が大きく変化しようとしている時、その対応を自ら判断できるのは郵便局長以外に居ないのだ

その便局長が管轄地域のアクシデントから身を引くということは配達員に成りすまして責任を逃れようとしている姿勢そのものなのだ

この傾向はいつまで続くのか?

これが一般に知られた限りはこれで郵便局稼業もお終いだ

信用を落とすスピードは速すぎる

そのスピードに負けたら郵便局稼業もすでにお終いだ

日本郵便局の地元建築士に対する都合の良い差別(2)

郵便局の担当係長は電話で言ってきた

「局長は出張で出掛けていますので、全て代わりで応対します」

私はすでに何を今さら謝罪されようと遅いとだけ返答した

なぜ、被害と解かりつつすぐに賠償責任を郵便局自ら対応しなかったのか?

怠けていたでは済まない

怠けて見せているだけの理由があったはずだ

すでに被害から3カ月が経っている

なぜ、被害者のほうが自ら損害賠償を請求しなければ郵便局で対応できないのか?

私はすでに今まで放置していた局長そのものの判断だけがおかしいとわかった

私は係長にもうすでに局長だけに対応させれば良いとだけ言った

しかし、担当係長は上司の部長とだけ話をさせてもらいますと強情に言い返すことを止めない

 被害者の私は局長だけで良いと言っているのだが。

 

 

私のこの不安は何でもないことなのだろうか?

私は郵便局が無断で置いて行った損害賠償請求書の入った封筒を9月1日から今日9月11日まで何も書けず尋ねず放置していた

その間、郵便局からは何一つも言ってこない状態のまま、今朝になって私から電話で初めて尋ねたのであった

その電話でまだ担当係長は相変わらず私の責任にしていることを知り、私は最終的に郵便局の悪態に対し初めて興味を持つに至った

 

その後考えれば、今日は奇遇にも9.11、有名なテロ事件から何年経ったのだろう

9.11テロ事件
この映画が世界的に大公開された1975年と同年、当時日本人建築家が設計し完成したばかりのワールドトレードセンタービルはすでに一度大火災を発生させていた
その後修復したが、映画の如く大崩落に至った
2001年9月11日